「週刊誌は僕にとっては仏教書」そのワケは?横尾忠則

こんにちは、都築寛史です。

・半世紀ほど前に出会った97歳と83歳。横尾忠則瀬戸内寂聴
・人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴横尾忠則が、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあいます。
・二人とも今は週刊誌ばかりを読んでいるとのこと。週刊誌には人間の煩悩と欲望が渦巻いているからとのこと。

ここには人間の煩悩と欲望が渦巻いているじゃないですか。仏教用語で言えば「因果応報」「自業自得」が原因で社会的な事件として発覚し、それがスキャンダルになってワーッと人の噂(うわさ)になって、社会的に失脚する、それを大衆は大喜びするんです。

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横尾忠則瀬戸内寂聴が、往復書簡で内緒話を披露しています。その中で二人は、週刊誌ばかりを読んでいるとのことです。ゴシップや醜聞記事が満載の週刊誌は、自分にとって仏教書なんですとのこと。週刊誌には、人間本来の煩悩と欲望が渦巻いています。仏教用語で言えば「因果応報」「自業自得」がきっかけとなって社会的な事件として発覚して、それが醜聞になり、また人の噂になって、社会的に失脚する、それを大衆は大喜びするとのことです。
それは、とても週刊誌のことを言いえて妙な発言だと思います。週刊誌に、高貴なものを期待するわけではなく、人間の底にある本能が書かれているのだと思います。読者はその人間臭さを、興味をもって喜んで読んでいるのです。俗の世界が渦巻く週刊誌の楽しみ方を、大衆が楽しんでいるのでしょう。
そんな人間の本能をデジタルで読むのではなく、活字で読むことに意味があるのだと思います。それは、デジタルの仏教書より活字の方が仏教書にはあっていると思うからです。デジタルの中には行間が感じられません。人間の深い部分は、行間に一番表れます。深い部分にある人間の性が、週刊誌のに溢れているのです。