息子がスーパースター担ってもいつも素質

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【悼む】PL学園のスーパースター清原が西武に入団した86年から7年間、担当記者として弘子さんとお付き合いさせてもらった。

 プロ入り後もやんちゃな息子が心配で、特に寮を出て都内で1人暮らしを始めてからは、岸和田―東京を何往復しただろうか。いつも笑顔で、息子の好きな料理を並べ、ちょっと小言も。新人王を獲得、その後の活躍で文字通りプロ野球を代表する選手になっても弘子さんには頭が上がらなかった。

 ある日、道でばったり会った私に「ねえ、この服いくらに見える?」と少女のように回転してみせた。私が「高そうですねえ」と返すと「バーゲンで買ったんよ。ええでしょ?」と得意満面。当時、清原氏の年俸は1億円を軽く超えていたが、庶民派な弘子さんはいつも質素だった。

 巨人に移籍してからは重圧も倍増した。心労もあり試合中は台所に立ち中継は見られなかった。友人からの電話で息子が打ったことを知るとスポーツニュースだけを見ていた。

 清原氏が野球を始めてからずっと世界一のファンだった弘子さん。もう一度、あの笑顔が見たかった。安らかに。

 

引用元

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/16/kiji/20190316s00041000123000c.html

清原選手のお母さんなくなりましたね。

これから寂しいかもしれませんが、今後も清原選手の活躍を楽しみにしてます!