家族がいるから老後が大丈夫とは言えない。

 

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「家族同士で面倒をみるべき」という価値観

「家族がいるから孤独死の心配はない」――そんな声をよく聞く。

だが、これは大きな間違いだ。超高齢社会では、死別、あるいは入院や入所に伴う別居状態など、様々な事情により誰もが単身生活者の境遇になり得る。

むしろ家族を「無償のインフラ」のように捉えてきた人ほど、家族に対する依存の度合いが強い傾向にあるため、かえって単身となった場合の孤立のリスクは高くなる。これは、家族が現在のような社会経済的に脆弱化してしまったものではなく、昔の思い出などから「安定したユニット」として記憶されていることによる誤解に過ぎない。

終活サポートを行なっている遠藤英樹さんは、依頼者の案件を多数こなす中で感じたことをこう話す。

「ほんの3、40年前ぐらいまでは家族の単位も大きくて、親族のネットワークも機能していたから、今でいう『終活』もどうにかなった人が多かった。つまり、面倒臭さと表裏一体ではあるけれど、相互扶助のようなものを期待することができたんです。

しかし、現在はというと、病気でも介護でも何かしらトラブルがあると、すぐに家族が壊れてしまう非常に危うい状況にあります。『普通の家族』自体がはっきり言ってすごくリスクの高いものになっているんですね。しかも、現役世代の人ほど自分には関係ないと思っているのが問題です」

例えば、現在50歳の会社員で、75歳と78歳の両親がいる場合、10年後にはそれぞれ順に60歳、85歳、88歳となり、15年後には同じく65歳、90歳、93歳となる計算だ。

しかし、子どもの立場にいる人の大半は、「自分は歳を取らないことを前提に考える」そうだ。つまり、自分は50歳のままの感覚で親の介護などの問題を語るのだという。

そこで起こるのが、親子での「老老介護」だ。子どもも高齢化し、持病や障害などを抱えている場合もあり、すでに要介護状態になっていることすらある。

最悪なケースとしては、90代の親が入院中に、60代の子どもが自宅で倒れて亡くなり、発見が遅れる――典型的な孤独死だ。そこには、「家族がいる」「自分は大丈夫」という根拠のない思い込みが底流している。

お互いの安否を気遣うレベルの近所付き合いや、日常的に対面する友人などが一人でもいないと、このようなリスクを回避することはかなり難しい。実際、遠藤さんの顧客にもこういった例は珍しくないという。

つまり、現時点で自分が置かれている「関係性の貧困」について、客観的に捉えることができていないのである。

これは仕事の有無や、パートナーの有無にまったく関係なく、誰もが「自分の関係性を自分でマネジメントする」ことが必要な時代に突入したことを意味している。近年ビジネスシーンでは、「関係性のマネジメント」という言葉が流通しているが、これからは私的な領域においても、「QOL」(生活の質)の視点から「関係性」を再考することを余儀なくされるだろう。

とはいえ、個人が主体的にコミュニティを立ち上げたり、ネットワークを作っていくライフスタイルは、残念ながら一部の例外を除いて、日本の文化にはあまり馴染みがない。家族や会社での人間関係を「固定されたもの」として認識し、所属集団へ閉じこもるような依存体質があるためだ。

そして、最も大きな障壁になっているのは、「高齢者は家族が面倒をみるべき」という、家族を言わば聖域化する価値観である。

遠藤さんの終活サポートは、家族代行と見守りを兼ねたもの。介護施設選びから入所後の施設とのやり取り、本人の健康状態の確認までを家族に代わって一手に引き受けている。必要な場合は、死後の葬儀や遺骨の処理までも請け負うという。

今のところ、「疎遠になっていた身内が認知症などになったのだが、面倒を見切れない」といった人からの依頼が目立つ状況にあるが、これからは「普通の家族」でもこのような事案が増加するとみている。

ただ、現在は、上記のように、家族からの事態が深刻化してからの急な依頼が多い背景には、「家族で何とかしなければ」という思いに囚われて消耗し、第三者に助けを求めるまでに時間がかかることが挙げられる。

仮に親が重度の要介護状態で、子どもが一人っ子の場合、入所施設が遠方であったり、仕事の都合で駆け付けにくかったりなど、トラブルにすぐに対応できないため、このようなサービスを受けることは現実的な選択となる。

 

「働かないと生活が回らないので、介護疲れなどにより体調を崩したりすると、家族全員が共倒れになる恐れがある。だからその前の段階で、私たちのような存在がいることを知ってほしい」(遠藤さん)

「2・5人称の関係」とは何か

遠藤さんは、「自分たちの立ち位置は、家族ではないけど、かといって他人でもない〝2・5人称の関係性〟」と表現する。

「家族だと2人称の関係性になってしまう。自分たちは明らかに家族ではないけれど、一方で3人称の関係性だと他人になってしまうので、ちょっと距離が開き過ぎてしまって、サービスを受ける側の満足は得られないんです。

だから私たちは〝2・5人称の関係性〟でやっています。感覚的には、ある時間帯だけその方の家族の代わりになって、入所先の施設の担当者とやり取りをしたり、個人宅に直接訪問して安否確認をしているのに近いですね」

一昔前、二昔前にはあったような親族やご近所とのつながりが薄れ、何か事が起これば、数少ない家族にすべての負担がかかる。介護保険などの公的支援にも限界がある上、しかも、それを独力でこなすことは肉体的にも精神的にも厳しい。

だが、「第三者」の手を借りるにしても経験がないため、価値判断(正しい選択かどうか)とアクセス方法(誰に頼めば良いのか)の両方で戸惑うこととなる。

ここに「自分の関係性を自分でマネジメントする」ことのヒントがある。

孤独や孤立をめぐる議論は二極化に陥りやすい。つまり、肯定派と否定派だ。しかし、現実はそれらの是非を超えて、「第三者の協力が得られないと、人は生き残れない」と告げている。

これは実は、病気や失業などの緊急事態の場合は云々……といった限定的な局面のみを指しているわけではない。普段の生活で心理的な安定を得ようとすれば、コミュニケーションの濃淡を別にして、「自分にフィットした関係性」が不可欠となる。そのため、「孤独死予防」に主眼をおく消極的な関係作りよりも、「心の健康」を最大化できる関係作りがベストとなる。

けれども、誰もがそのように自由に振る舞えるわけではない。現実的な処方箋の一つとしてよく示されるのが「多重所属(一つの集団に依存せず、複数の集団に同時に所属する)」であるが、当然ながら、人間関係を最小限にしたい人も少なくない。

もう一つの現実的な処方箋は、自分が望むコミュニケーション環境があるコミュニティへの移動と、個人向けの多様化したサービス(民間・自治体)の使い分けである。他人との積極的なコミュニケーションが不得意な人にとっては、現実的な落としどころになるかもしれない。

「迷惑をかけたくない」が生む孤独

「心の整理家」としてよろず相談を引き受ける「さえずりの会」の主宰者の山下みゆきさんは、訪問看護や心理カウンセラーなどの仕事の合間を縫って、ボランティアで高齢者などの見守りに取り組んでいる。

「さえずりの会」は、山下さんが父親の孤独死をきっかけに、自分でも何かできないかと思って立ち上げたボランティア組織だ。主として高齢者の自宅を訪問して、会話などを交えて安否確認をしている。特に地域から孤立している人には積極的に声掛けをしているという。

 

高齢者に話を聞くと、「子どもや孫に迷惑をかけたくない」という思いが先行して、孤独や孤立につながっている面があるそうだ。ただし、コミュニケーション自体を拒んでいるわけではない。個人ごとに多様な要因が絡んでいるという。

「女性の方は、私の『さえずりの会』の情報を見て、相談においでになります。不安や悩みなどを聞いているうちに、自然と見守りの話になることもあります。他方、男性はこちらから声を掛けないと引きこもってしまいますね」

国立社会保障・人口問題研究所の「生活と支え合いに関する調査」(*)によると、高齢期の会話頻度が低いほど、「長生きすることは良いことだと思う」割合が減ることが分かっている。

近年、山下さんのような取組みは、個人・団体を問わず増えてきている。これは決して高齢者だけの問題ではない。家族が外部の資源なしに回る時代は終わったことを自覚し、現在の「関係性に潜むリスク」と向き合う余裕を持たなければならない。

コミュニケーション環境のコントロールは、「サバイバリズム」(生存主義)の要だからだ。

今後、QOLと人間関係に対する社会的な関心は、ソーシャル・キャピタル社会関係資本)の「焦土化」とともに高まっていくだろう。

 

引用元

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58853?page=3

いま現状の価値観が変わってきているのが真実であり、今後は全く違う老後があると思いますね。